五十嵐研三 百二年間の求道の姿
~四つの句集の「あとがき」と第二句集「三瀬谷村」の一句から~    

森田高司

小序

とぼとぼと歩き力の要る雪道 研三
(第一句集「北窪村」)
 右記の句は、五十嵐研三米寿の折りに、彼が自宅としていた(三重県松阪市)の庭に林英男・和琴夫妻によって建立されている。この句に凝縮された、人間の日々の暮らしの積み重ねこそが、一人一人の値打ちを鍛え、形付けられていくその姿を、じっと見守っている五十嵐研三の揺るぎない姿がある。
 「力」とは、自分の暮らしを歩んでいく中で蓄えられる「力」であり、己の道を切り拓くためのものだ、と受け止めたい。
 同時に、今日の地球における戦に明け暮れている人間に向けての指弾ではないか、という気がして猛省させられる句である。
 
一 はじめに 

 まずは、五十嵐研三との出会いについて述べたい。私のなかでは、五十嵐研三は、俳句世界へ誘ってくれた水先案内人であり、それは、その後の金子兜太へとつながっている。
 昭和六十二年(一九八七年)に私の第一句集「ありのまま」の発行にあたり、彼が経営していた共栄印刷株式会社にお世話になり、句集の跋文を五十嵐研三と村田治男に書いてもらっている。
 五十嵐研三は、その中で、多くの示唆を具体的に提示しつつ、「屋根の右から海動きだす真夏」の句を取り上げて、『このような写実的な句の領域を、すでにちゃんと知っていることに安心する。』とあり、句づくりの方向 性の背中を押された、という記憶がある。
 また、五十嵐研三は、村田治男とともに、結社を超えた「三重県俳句集」を十年間発行。これが土台となって、「三重県俳句協会」が設立され、現在「年刊句集」が四十八号となっている。
 五十嵐研三は、大正七年に福島県耶麻郡猪苗代町字北窪村で生まれている。彼は、百二年間の間に、第一句集「北窪村」(昭和四十二年)・第二句集「三瀬谷村」(平成五年)・第三句集「櫛田村」(平成十八年)・第四句集「中郷村」(平成三十年)の四つの句集を刊行し、合計で二千二百八十一句を残している。
 五十嵐研三は、生を受けた大地の息吹の中で暮らす人々と対峙し、日々の営みを、黙々と積み上げていく人の姿を、自分の血肉としながら、またそれらを肥やしとしながら、自分らしさを育んできている。その確かな閃光として垣間見えるものを、第二句集の「あとがき」に以下のように記している。『村シリーズにこだわるのは私の日常生活のありよう、その原型に、昔の「村」のイメージから離れ得ない感じがするからだ。』
 正に、五十嵐研三の歩みの原点、求道の始まりの地こそが「村」なのである。

二 四つの句集の「あとがき」から透かし、見えてくる、求道の姿

第一句集「北窪村」「あとがき」より
 あとがきの要点は、次のものである。
・『戦争があり東京、名古屋、岐阜、そして現在の山村住いがあり、俳句を書き始めてから三十年近くたっている。』・『私がなかなか 自分一人の句集をだせなかったのは、どうも私のものぐさが原因のようである。五十歳近くになって、いやでも「死との対決」などといった問題にぶつからざるを得なくなってみると、せっかく書きためた俳句くらいは一本にまとめて残しておきたいと思うようになった。』
・『私にとっては、俳句を書くことがい つの頃からか創作することであり、哲学することであり、美術することであり、音楽することであり、文学することであり、詩することであり、その他もろもろのことをするものであった。』
・『私は、ザラ紙を使用して句集 をつくってみたいと思っていたので、この「北窪村」でそれを実行した。私の俳句は野暮ったく、しかも変な作品のようなので、それならザラ紙を背景にした方がふさわしいと思ったからだ。』    
 五十嵐研三は、三十年近く俳句に向き合い続け、五十歳近くに第一句集を発刊する。その間、彼にとって様々な変遷があり、だからこそ『死との対決』という決意表明が自ずから出てきたのであろう。
 句集を出すことは、大きな決断であり、自己の歩んできた道を振り替えざる得ないものがあったのだろう。この姿は、一意専心していく姿であり、俳句を書くことは、創作であり、哲学であり、美術であり、音楽であり、文学であり、詩であり、と表明する。ところが彼は、その後に『その他もろもろのことをするものであった。』と書き記す。日々の暮ら しの一日一日、その物、人、季節という中で命を繋いでいくものたち総てを、同一に包み込むあたたかい眼差しで、その景を自分の俳句として迎え入れ、書きあげていることが伝わってくる。

第二句集「三瀬谷村」「あとがき」より
 あとがきの要点は、次のものである。
・『「三瀬谷村」という題名は「北窪村」刊行のときに決めてあった。あと何年か生かされての余裕を許されるなら、句集「櫛田村」、句集「中郷村」を予定している。』
・『私の心 の底には、常に、そのときどきに住んだこれらの、村と呼ばれていた頃の「村」のイメージが棲みついる。私は、いわばそうした「村」の亡霊見たいなものを追い続けながら、俳句作品を書いてきたのかもしれぬ。』 
 五十嵐研三は、自らの歩みを冷静に、客観的に傍らに置いて、俳句づくりを行ってきている。特に、日常生活の有り様から発する景こそが、自分がめざす俳句づくりの原点であると捉え、自身の心の襞に触れてくる「村」独特の匂い、空気感に気付きつつ、絶えずその景を意識することで一句を成立させてきたのである。
 また、彼は、『「村」の亡霊みたいなものを追い続けながら、俳句作品を書いてきたのかもしれぬ。』とも書いていることからも、「 村」から見えてくるもの・見えにくいもの・見えないもの・これから生まれようとするもの、の存在をえぐり出そうと葛藤しつつ、己の内面をかき混ぜ咀嚼していったにちがいない、などと勝手に想像してしまうのである。だからこそ、五十嵐研三の立ち位置が、より鮮明に目の前に、浮かび上がってくるのだ。

第三句集「櫛田村」「あとがき」より
 あとがきの要点は、次のものである。  
・第一句集から第三句集まで六十九年間の作品が、一九九九句であること。
・『六十九年間もかかってたったこれしきの内容の句しか書け得なかった悔やそのくやしさを悔やむ思いがつよいのだが、また角度を変えて考え直してみると、たったこれだけのことでも書け得たこと自体たいへんなことだったのかもしれぬと思うこともある。今はそう思うことでむしろ心安らかである。』
一九九九句であることに、思いを馳せ『これしきの内容しか書け得なかった』と吐露しながらも、俳句づくりに向き合い続けた、続けることができた自分の置かれた環境や出会った人たちに思いをめぐらせる姿がある。一途に、自分の表現世界の構築をめざした姿がみえてくる。
『悔いやくやしさ』には、彼が俳句づくりに取り組む中で、村から生まれてくる一句の持つ奥深さや幅広さに気付き、ありのままを見つめ続けるなかで触発してくるものを丹念に拾いあげていく、表現者としての矜恃がみえてくる。
 同時に、見えている・見せられているものから、さらにその奥にある人間の体温や生の声までも句の中に位置づけようとしたのではないか。彼の「人間をみるとは」という自問の響きが押し寄せてくる。
 が、あとがきの最後に記されているように、
『今は心安らかである。』と結ばれており、様 々な試行錯誤或いは、自己との葛藤などを経て益々、五十嵐研三は、自分自身の根を太くはりめぐらせて、一日一日の営みを土台にして巨木となっていったのがうかがえる。

第四句集「中郷村」「あとがき」より
 「あとがき」の要点は、次のものである。
・『十五歳から就職し、母へ仕送りをする。・職場の温厚な人々と仕事をしていく中で、同じ福島県人の若き職人と出会う。』
・『若き 職人さんに「勉強を教えてやる」と声をかけられ、東京の夜間中学をめざすことになる。』 
・『三年間勤めた会社を辞め、昭和十一年四月に上京する。本社転勤となる。』
 十五歳で家族から離れ新潟で働くという大きな節目となった時期である。自分の周りの環境を自分の意思で決められない、変えられないという状況に置かれた時でもある。出会いのひとつひとつが、周りの大人たちの言動が、ズキズキと心身の中に入り込んできたに違いない。新たな事と出会っていくことで、次の自分の道筋が見えてきた「中郷村」なのである。
 だから、結びに『私の第二の「ふるさと」と言っていいのかもしれぬ。第四句集名にした所以でもある。』と書いているのだ。

(後編へ続く)