神野紗希
『俳句は肯定の文学 口語・他者・偶然』評
(上)
広がる「口語俳句宣言」への展望
─俳句口語化と定型、季語、切字をめぐって
👤柳生正名
筆者(柳生)がコーディネーター役を務めた2025年の『現代俳句講座』(主催・現代俳句協会)は「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」をテーマに開催された(11月24日、東京・荒川区立図書館 ゆいの森あらかわ)。その場で、筑紫磐井・現俳協副会長とともに講師役を依頼したのが本書の著者、神野紗希である。
講座では冒頭、現代俳句協会で役員を対象に先行して実施された「現代俳句とは何か?」を問うアンケートの集計結果を筆者が紹介し、
戦争が廊下の奥に立つてゐた
渡邊白泉
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
池田澄子
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
金子兜太
といった口語文体による句が現代俳句を代表する作として上位を占めたことを報告。協会が100周年を迎える20年後をイメージし、「俳句はどこへ向かうのか」を考える上で「口語表現」が一つのキーワードになるだろうという予想に基づき議論が進められた(詳細は「現俳ウエブ26年2・3月号」参照)。
神野に白羽の矢が立ったのは、こうした議論の展開となることが想定されたことが一つの理由でもあった。かつて俳句総合誌上において1年間にわたり「口語俳句の技巧(レトリック)」と題した連載に取り組んだ(2018年4月~19年3月『俳句四季』)実績からも適役と感じられた。
「文体」は文芸にとって根幹をなす問題であり、哲学や思想との絡み合いの中で織り成される文芸作品の「内容」以上に純(、)文学的な、いわばこのジャンルに固有の問題である。新たに創出される文章、言葉のほとんどすべてが口語文法に基づく文体で占められ、短歌でもここに来て口語作品がむしろ主流となりつつある今の時代に、俳句のみ文語文体が主流であることの根拠を、否定的にであれ、肯定的にであれ、問うという理論的対応が求められるはずだ。にもかかわらず、現実としてそれは十分行われていない印象がある。
ある意味で、俳句界では文語派であれ口語派であれ、自らの嗜好にかなう文体に身を任せ、明確な自覚のないまま作品を生み続ける状況なのではないか。本書の内容はそうした現状に一石を投じ、警鐘を打つもの言ってよい。ならば、口語俳句について真正面から論じた本書の登場は純文学的な意味から俳句史に記されてよい出来事なのではないだろうか。
◆口語俳句と「定型」
本書の第Ⅱ部「口語俳句の可能性」に「伸張性―圧縮する文語 定型と文体」と名付けられた節が設けられている。文語と口語の「音数の違い」に着目し、例えば形容詞では「寂し/寂しい」「美し/美しい」など、文語から口語に変換すると一音ずつ長くなる例が多い点を指摘する。「暑し/暑い」など音数が変わらないものも存在するが、動詞でも「老ゆ/老いる」「恐る/恐れる」など同様の例を挙げている。
俳句定型をどう捉えるかには多様な考え方が存在するが、日本語俳句では17音(字)という枠があることは否定しがたい。破調を認め、自由律を主張する立場であっても、17音がひとつの基準として常に意識されている。それは音律的な短さのみならず、内容として盛り込まれるデータ量の過少も意味する。
さらに金子兜太が俳句を「世界最短の定型詩」と定義づける時、「定型」の語によってそれは個の作のみならず、ジャンルとして成り立つべき類的存在であることも意味する。音数やデータ量が極端に少ない場合、ある限られた数の作品は成立しても、ジャンル化された場合、一定の作品が蓄積されて以後は過半の作が類想という袋小路に入り込みかねない。そうならないだけの拡がり・多様性が保証されるためには、人間の記憶容量との関係で「無限」と感じられるに十分な拡がりを担保する長さが「定型」には求められる。このベクトルと、より短いことを志向するベクトルとの均衡点が日本語の場合、17音なのではないか。
17音を基準とする限られた拡がりの中で形容詞や動詞を用いる場合、かなりの確率で1音増やさざるを得ないことは大きな負担だ。俳句の口語化は、俳句を考える上で最も重要な要素(兜太の場合は定義そのもの)である「定型」性の捉え方に大きなインパクトを与え得る。このことを単なる抽象論にとどまらず、具体的な議論として明確にした点が、本書を「俳句史に一つの時代を記す」と評価した一つの理由だ。
こうした視点から考えると、筆者が通念的に抱いている「口語句は字余りが多い」という印象もそれなりに根拠のあることが分かる。従来、文語的発想で作句してきた者にとって、それを翻訳する形で口語俳句とすると字余りになる可能性が高い。自由律俳句では大正期から口語を積極的に取り入れてきた。この事実も、全体の音数の制限を緩和し、自由化した自由律と口語の親和性の高さと理解すれば納得できる。
さらに定型性をより厳格に捉えるほど、文語使用に傾きやすいという法則性も導き出される。それは今なぜ俳句のみに積極的に文語が使用されるかの説明にもなる。本来、文語俳句至上論者こそ、こうした論を立て、主張を行うべきだろう。現在の短歌の世界を見と、若い世代を中心に文語での創作という過程を全く経ず、むしろ文語の系統的知識が希薄な状態のまま、口語による創作を手掛けているのでは、と感じさせる作を見出せる。文語の洗礼をほとんど受けていない層が主流となる時代が来るとしたら、定型の捉え方がどう変化するか、今後が実に興味深い。
◆口語俳句と「季語(題)」
先に記したように兜太の場合は「定型性」が俳句の定義に直結する。一方で伝統派や中間派の場合、俳句の基本的な要素として「定型、季語(題)、切字」の三つを挙げるのが通例だ。高浜虚子以来、俳句入門書などはこの3つの概念の説明から始めることが定式化している。無季を積極的に受け入れる兜太でさえ、初心者向けの文章では枠組みとしてはほぼこれに従う場合が多々ある。
とすれば、俳句についての全体像を捉えた上で口語化について語る場合、「定型、季語(題)、切字」という三本柱のそれぞれに口語化がいかなる作用、影響を及ぼすかを論じることが必要だ。本書の「伸張性―圧縮する文語 定型と文体」の節はこのうちの定型について重要な視点を提起していると理解できる。ならば「季語(題)」「切字」に対し俳句の口語化がいかなる影響を及ぼし、従来の捉え方に変化を与えるかを論じる形となっていれば、本書は文字通り「体系化された口語俳句宣言(マニフェスト)」と評価されてしかるべきものとなるはずだ。
ただ論全体として従来の文語文体を前提とした俳句論にぶつける形で体系的に論を展開するという戦略を明確にはしていない。それがなされていれば「口語俳句宣言」という歴史的なメルクマールとなり得たとも感じられる。
そこまでの体系化は未達成とはいえ、「季語(題)」「切字」のそれぞれと「俳句の口語化」とがいかなる関係で結ばれ得るか――そのヒントを本書で示された様々な論述の断片から汲み取り、構築していく読み方が実は可能だ。例えば「季語(題)」については、本書の第Ⅰ章中の「反復性と一回性」の節で論じられる内容に注目すべきだろう。この節は「反復性と一回性を備えた季語」「無季俳句の反復性・一回性」というセクションで構成されているが
さまざまのことおもひ出す桜哉
芭蕉
を例句に挙げ、
春夏秋冬は毎年必ず繰り返される。季語はそれのみでは、一回性よりも反復性の強いものだ。だからこそ、季語を詠む際には、一回性を意識する必要がある。どこにでもあるいつでもみられる桜や燕だと思わせるのでなく、今まさに一期一会の瞬間であり見逃してはならないとハッと心をつかむような、そんな命を引き出せたとしたら、その句は命そのものとなって生き続けるだろう。
と説く。反復性と一回性のいずれかではなく、両者が互いに絡み合い・交錯することが俳句を成り立たせる重要な要素――これが本書の主張であり、発見でもあろう。著者(神野)の見解では、有季の句と比較すると無季の句は一回性への志向が顕わになりやすい。
草一本だけ生えてゐる 時間
富澤赤黄男
季節の移ろいで生え枯れる「草」だからこそ、〈そんな草が今ひとときたった一本だけ風にそよいでいるさまは、まさに一回性を練り上げた風景だ〉という。〈一方、一字空けによって「時間」は概念となり、上の風景と切り離される。時間は途切れることのない永遠の象徴だ〉。それだからこそ、〈瞬間と永遠が十七音の球体の中に凍結された〉無季句として立ち上がる。瞬間的な映像の切断を本分とする無季表現である分、一句として成り立たせるために永遠へとつながる糸口が必要になる。
作者は触れていないが、赤黄男の句は口語文体による。本書では第Ⅱ章の「瞬間性 ぶれない口語、揺れる口語」の節で〈文語が、その長い言語の歴史へと連なる永遠性を志向するのに対し、今と結びついた言葉である口語は、瞬間性を華とする〉と述べている。
この言説について、筆者(柳生)は本書全体を支配する文語/口語という素朴な二分法は議論をかえって混乱させるため、もう少し緻密な考察が必要と感じている。(この点については次回、「口語/文語と文章語/対話語のあわいで」と題し、改めて論を展開したい)。ただ直感的には十分共感可能な説とは思う。そして俳句で口語文体に季語を乗せることは、一回性と永遠性を一句のうちに交錯・融合させるために有力な戦略とする著者の見解には全面的に賛同する。それは昨年の現代俳句講座でも話題に上った芭蕉の「不易流行」、さらにはフランス象徴派の詩人ボードレールがモデルニテ(現代の美)を「移り変わるもの」と「永遠性」の両側面からなると捉えた見地に連なる考え方だろう。
一方、「季語(題)」は名詞の占める比率が高く、文語から口語に変換する時点で字数が大きく変動する例はさほど多くはない。形容詞・動詞(「涼し」「蘖る」)の場合でも、定型をある程度緩く解釈すれば容易に吸収可能なレベルだろう。
おおかみに螢が一つついていた
兜太
口語文体で季語を用いた実作はすでに数多くみられる。今後、口語俳句を文語の口語訳でなく、元より口語的な発想でつくる層が増えれば、口語文体と季語(題)の相性は文語の場合と比べて原理的に劣るとは考えられない。本書で「季語(題)」と俳句の口語化の問題を直接的に結び付ける議論がされていない理由はあえて論じるまでもないからなのかもしれない。
◆口語俳句と「切字」
他方、「切字」について本書では「季語」以上に言及されることがない。少なくとも文語俳句として取り上げられた例句の内には、先に示した芭蕉の〈さまざまなことおもひ出す桜哉〉の一句に加え、
来ることの嬉しき燕来たりけり
石田郷子
古池や蛙飛び込む水の音
芭蕉
と三大切字が網羅されているにもかかわらず、「切字」について語られることはない。なぜか。思い当たる節があるといえばある。それは、文語文体においては確かに存在する「切字」が口語に存在するかについて言及されることが従来ほとんどないからである。
「口語には切字がない」というのでもない。「あるかないか明確でない」とさえいわれることもない。と言って、「存否を語ることが禁忌である」と明言されもしない。そんな曖昧な空気感のうちに皆がこの問いに触れることを避ける空気感が醸成されている、ということか。
「口語俳句には切字がない」と明言してしまえば、文語の切字でしか表現できない何ものかを口語俳句は扱えないと認めざるを得なくなる。それは表現力の面で口語は文語に劣ることを意味しかねない。
そもそも切字にしか表現できないようなものはない、切字は単に字数合わせの言葉に過ぎないとすれば、一番すっきりする。ただその場合、切字が俳句を形づくる主要な三本の柱のうちのひとつという認識は誤りとなる。それは近代俳句に限っても、子規、虚子らが築き上げてきた体系的な俳句観の否定につながる。
こうした問題の所在について作者がどれだけ意識的かは判然としないが、「切字」という術語を用いて、論を展開する箇所は本書には見当たらない。ただ、それにもかかわらず実に興味深いことがある。それは本書の中に「切字」という術語を用いないままに、実質的に「切字」という概念にぴたりと重なる―と筆者には感じられる―事柄についてが論じられている。その最たる例が本書・第Ⅱ章の中の「瞬間性」の節に収められた「3 過去形による口語の永続性」の部分(セクション)である。
ここでは
逆立ちしておまへが俺を眺めてた
たつた一度きりのあの夏のこと
河野裕子
という短歌を例に取り、〈口語を用いながらも、過去形をとることで、時が過ぎ去ってからも振り返り、繰り返し思い出す忘れがたい場面として、この逆立ちの瞬間に特別な輝きを与えている〉と評する。その上で〈過去形を用いることで、口語を永遠性に近付けてゆくこともできるのだ〉と結論付けている。
先に記したように「文語の永遠性/口語の瞬間性」の二項対比は、本書で展開される論の主要なバックボーンとなっている。ここで語られる「過去形」が歌中の〈眺めてた〉における助動詞〈た〉の存在を指していることは間違いない。続けてこの部分(セクション)では
遠方とは馬のすべてでありにけり
阿部完市
仔馬が街を走つていたよ夜明けのこと
金子兜太
の2句も取り上げられる。文語/口語文体の対比が際立つ両句だが、阿部の〈ありにけり〉という文語俳句の常套(クリシェ)というべき下五について作者は〈普遍的真理を述べる堂々たる文体〉とする。一方、兜太の〈いたよ〉は〈童話的な風景を、見逃しがたい瞬間の句にブラッシュアップさせた〉と読む。一見、「文語の過去=けり」と「口語の過去=た」を対照的な真逆の存在と捉える構図のように見える。
確かに阿部の一句には〈とは〉という修辞が用いられ、時の経過によって変動することのない「一般的真理」風の言説を語っている。ただ〈(に)けり〉という切字は、それ以上の作者の思いを含意している。〈けり〉という助動詞本来の伝聞過去という時制を表現する機能以上の表現的意味をこの語が背負っているのである。
それは〈遠方〉=〈馬のすべて〉という「真理」を作者(完市)が今、目の前にいる馬のまなざしを目の当たりにすることで感得したという体験の瞬間性に触れる事実である。この体験によって生まれた作者の内面の大きな揺らぎを表現しているのが〈けり〉なのだ。そのことが本来は過去という時制を示すこの助動詞が切字という存在に昇華されるということの意味である。
そう考えると、兜太句の〈た(よ)〉は確かに瞬間的なイメージの表現であるが、それは若々しく未来に開かれた生命そのものの在りようとして作者の心を揺らす。それはまさに永遠性に連なっていく心の動きである。つまるところ、両句の〈けり〉〈た〉は文語/口語の別はあれども、非常に接近したはたらき――本来の過去という時制の表現を昇華し、瞬間に根差しつつ永遠に触れる詩語として超時制(、、、)的に並び立っているというほかない。ここで完市の〈(に)けり〉を文語の切字と呼ぶのであれば、兜太の〈た(よ)〉を口語の切字と呼ぶことに何ら躊躇を感じる必要はない。
〈にけり〉については
帚木に影といふものありにけり
虚子
という俳句史に刻まれた一句もある。この一句を伊勢物語「昔男ありけり」と同様に「むかし帚木に影があったという」と過去の時制を主眼に読むと俳句の解釈としては誤りだ。影は太陽が天にある以上、過去から未来を通じ常に存在する。眼前に帚木を直視することで、今まで漫然としか感じていなかった影の存在を改めて実感した思い、当然なことを再発見するという人生における最も深い感動を示すのが切字としての〈(に)けり〉の意味と言ってよい。この特別な言葉の在りようを古人は切字と呼んだ。心のうちで思いの大きな揺らぎを伴いつつ、現前する対象の存在そのもの――これを一息で言い成すはたらきを持つ言葉こそが切字である。
◆超時制的〈た〉の切字性
口語句における〈た〉について本書では他にも言及している箇所がある。第Ⅱ章の中の「主観性――新興俳句と戦争 対峙する〈個〉」と題された節であり、俳句論上に登場する「主観性」の語から想定される問題系からは逸れ、むしろ俳句史的な視点から新興俳句を中心とした社会詠的な作品群と口語との関係性に焦点が当たっているように読める。だからこそ
戦争が廊下の奥に立つてゐた
渡邊白泉
が俎上に上るのであるが、この句について著者(神野)は〈「立つてゐた」と過去完了形を用いている〉と指摘する。その上で、〈過去形はすでに起きてしまったどうしようもない事実を指し示す。戦争が日常のすぐそこに迫っていることは動かしようのない事実だと、白泉は過去形を使って暴き出した〉と説明を加えている。
これだけ読むと、「過去に起こったどうしようもない事実」はあくまで過去の出来事であり、「戦争が日常のすぐそこに迫っている」切迫感を表現するために過去形を用いた、という著者の主張には矛盾が感じられなくもない。ここで筆者にはある言語体験が想起される。40年近く前、昭和の最末期に転勤で居を構えた矢先の松山でのあいさつ回りで愛媛県警本部を訪ねた際、警護役の警官から「おはようございました」と挨拶され、ある種のカルチャーショックを受けた。標準的日本語では「おはようございます」というところである。特別なニュアンスが込められているのではと気になったが、当地での生活が続く中、それが決して特殊ではなく、日常的語法であることを知った。興味深いのは本書の著者(神野)も愛媛県出身という点である。
各種方言辞典などによると、これは北海道、山口、愛媛の方言らしい。真田信治大阪大名誉教授は『標準語はいかに成立したか』(創拓社)で「ます」より「ました」の方が「より丁寧な表現になるようである」と分析している。また山形では電話に出た際、「もしもし、○〇です」ではなく「もしもし、○〇でした」と言うと丁寧な雰囲気になると解説するネット情報も目にした。これらの場合の〈た〉は時制としての過去を意味するというより、話者の現在の内面的な感情(たとえば相手への敬意)を表現しており、時系列的な理解で解釈しようとすると誤解となる可能性がある。
時制が日本語より明確な英文法には、仮定法という概念がある。時制を1つ過去に戻すことで語る主体の現在的な内面の揺らぎとでもいうべきものを表現する。ここでは深入りしないが、超時制的な時制表現を用いることで話者の主観を描き出すことは言語の違いを超え、人間の本性に根差した現象なのかもしれない。
白泉の句の〈た〉も時制という枠組みに過度に捉われず、作者の明示されざる「現在的主観」に着目して解釈されるべきだろう。さもないと戦争は戦前の大日本帝国時代の話という印象につながりかねない。この一句については冒頭、今般の現代俳句アンケートで最高点句に輝いた事実を記した。「新しい戦前」ともされる緊迫した政治的・文化的状況にある今=令和の空気感を体現するこの句の現在性ゆえの出来事なのではないか。
先に引用した〈過去完了〉〈過去形〉という理解の直後に、作者は〈無造作な口語は、プライベートな空間にいる人間が、素の状態で、戦争の視線に気づいてしまった不安や怖さを、生々しく再現している〉という評も記す。こうした話者(句の作者=白泉)の内面の振れ幅を「怖い」「大変だ」などという形容詞系の説明的な語ではなく、自身の内側からにじみ出る「いまここ」の発語の在りようとして文末に据えることで一句に込められた一つの世界を閉じる――それがこの句における〈た〉の働きであり、それは文語俳句において切字〈けり〉と重なるものと言ってさしつかえない。〈た〉は口語の切字と捉えるべきであろう。
◆「口語俳句宣言」への期待
ここまで記したように、本書に盛り込まれた口語俳句に対する豊かな考察と知見は従来、類例がないのではないか。これに加え、口語俳句にも「切字」が存在することを明確にした上で、「定型」「季語(題)」というともに俳句の根幹をなす主要概念に沿って論を体系化し、それが「口語俳句宣言」として世に出るとき、実作と理論が並び立つ形での「口語俳句」が明確な形で立ち上がることになるだろう。それを予感させてくれる点にこそ、本書が上梓されたことの大きな意義を感じずにはいられない。
次回
神野紗希『俳句は肯定の文学 口語・他者・偶然』評(下)
「口語/文語」と「文章語/対話語」のあわいで
に続く(掲載号未定)。