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🏆第46回現代俳句評論賞 山根もなか
俳句は第一芸術である――知覚・形式・運動の条件

🏆第46回現代俳句評論賞
受賞作解題

アウフヘーベンされた第二芸術論
👤藤田踏青

論者・山根もなか氏は自由律俳句結社「きやらぼく」に2014年(平成26年)より参加し、その後、自由律俳句結社「青穂」や「現代俳句協会」へ入会し、論・作共に最近メキメキと実力を発揮されています。今回の解題への指名は私が「きやらぼく」の先輩という事からでしょうが、山根氏の哲学を基底に置いた各誌への論考のベクトルは多彩である。

例えば氏の各評論に頻出するドゥルーズの「リトルネロー」「差異」や、ベーコンの「歪み」、ヤコブソンの「詩的機能」の用語等々からも類推されよう。

先ず、「桑原武夫の議論は、西洋近代芸術の物差しを外側から俳句に当てがった評価だった。」とし、旧来の第二芸術論への形式論・表現論からの展開ではなく、「句のなかですでに動いている構造」「句の内側で起きている知覚の運動」を探ることで、俳句の成立条件を見直している。つまり、第一芸術とは「知覚の運動が形式を生成する」と。それは氏がかねて主張していた「俳句において言葉が動くその動き方」と同じ意味内容であり、形式を生成する向きを重視している。

さらに、第一芸術たる条件として「生活、理念、社会性」の三条件をあげている。それは、生活=生の運動、理念=自覚的な思考、社会性=他者への開かれた関係、といった構図で示されており、それは俳句が関係性の文学であることを示している。

知覚をその作用を含む認識という言葉に置き換えれば、ヤコブソンの「認識ということは、絶対の認識ではなく関係をみる」ことであり、ゲシュタルト心理学の「ものそのものが認知されるのではなく、二つ以上のものがあったときに、その関係を認知するのである」と同じ視点にたつものであろう。そして、「三条件は固定的基準ではなく、螺旋的に更新されながら俳句史を貫く動的原理である」と、静止の状態ではなく、常に流れの中で把握しようとする、新しい俳句史観を示してもいる。

作品としては芭蕉を例にとり、『荘子』の物化の思想を援用して、「主体と対象が分れる以前に知覚が生成する構造」を述べ、いわゆる〈物心一如〉の世界を描き出している。それは「対象の側から知覚を立ち上げよ」という芭蕉の俳論にかなうものであると。

また、荻原井泉水の「一作一律」の思想を取り上げ、「形式そのものを知覚の運動から導き出す」という論旨から、俳句を形式としてではなく、内容が形式を選び取る構造を展開している。それが生成する運動としての知覚であると。

埴谷雄高も「芸術、そして文学(俳句を含む)が生成発展すべき創造であれば、その方向性は、あり得たかたちではなくて、あり得べき何か、謂わば、未知のXをはらんでいなければならぬ。」と述べていた。その未知のXこそ「一作一律」の作品であろう。

更に、個の表現である俳句を、生活と社会との関係性という面から切り込んでもいる。種田山頭火の生の運動という漂泊の生活や、金子兜太の社会そのものに侵入してゆく姿勢から、それぞれの知覚の生成を指摘しているのがそれである。

また、芭蕉から井泉水、山頭火、兜太へと続く流れを、直線的ではなく、螺旋的な変化を含んだ運動として捉えており、それが前進ではなく、回帰のなかで更新が起きている、と俳句の流れの中に螺旋的な構造を認めている。

氏の結論として「個と共同体のあいだに緊張が生じ、言語の運動が知覚として立ち上がるその瞬間にかぎって、俳句は第一芸術として現れる。」と、その運動が続くかぎり俳句は第一芸術であり続けると断言する。

外界の変化につれて言葉も現実に変化し続けている。そして言葉の持つ属性〈音・意味・価値・像〉も変化する。そして、それが作品の多義性・多様性を導き出す。

山根氏は「崩壊の縁でなお立ち上がってくる知覚の運動、生成のままにある言語」がある限り、俳句は第一芸術であり続ける、とその変化の運動に注視し続けるのであろう。

なお、ベルグソンは知覚と存在に注目し、観念論と実在論の対立をイマージュという概念で綜合的に統一しようとした。今後、今回の論考の先に、知覚されないイマージュについての展開も期待したい。