第1回ポリネシア俳句大会受賞作品鑑賞⑤
👤マブソン青眼

ポリネシアで筆者が愛用していたパナマ帽(元々は父の形見)
La rafale l’emporte
le chapeau abandonné
roule vers le marchéSophie Leduc de Nouvelle-Calédonie, Dumbéa
捨てられて
市場へ走る
帽子ニューカレドニア、ドゥンベア市 ソフィ・ルドゥック作
(マブソン青眼訳)
第1回ポリネシア俳句大会(フランス語部門)審査委員特別賞。
本連載の第1回目では、「アニミズム俳句」の“定義の試み”として「複数の視点を同時に顕わすことによって、物質の世の多様性の奥に潜む精霊の世界、その統一性を暗示する」と書いた。
たしかに、今まで取り上げた4句を振り返ると
〈 海白み 鳥語ひとつに なれば喜雨 〉
〈 トエレのリズム 馬は黒砂で 踊り出す 〉
〈 流木に 雨粒光る 月込めて 〉
〈 波の鼓動 礫と子が唄い 雲黙る 〉
どれもいわゆる「絶妙な取り合わせの句」だった。
海と鳥の視点で同じ「喜雨の神秘的な予感」を詠ったり、太鼓打ちと馬の立場から「祖先との繋がり」を暗示したり、流木と雨粒の中の月で「切なくて美しいものの哀れ」を詠んだり、または波・礫・子・雲の不可思議な取り合わせによって「森羅万象のポリフォニー」のようなものを表現したりしていた。
では、アニミズムの世界観(オントロジー)を表すには、そんな「取り合わせの句」しか有効ではないということになるか。
もう一つの句作の手法といわれる「一物仕立て」も、「多様な姿を見せる物質界の中の、万物に共通するアニマ」を表すことはできないのか。
掲出句は(「市場と帽子の取り合わせ」と評する読者もいるかもしれないが)、非常に単純な一景で「帽子の魂」を表現し得た秀句といえるのではないか。
先ずは、原文の「abandonné」というフランス語の単語だが、「捨て子」や「捨て犬」などに使えても、「帽子」だと明らかにおかしな用語となっている。
作者はこの帽子をよほど哀れんでいると真っ先に感じる。
それから、風に押されながら市場へと“走る”動作に関しては、「主(あるじ)を探すためだ」と作者が言わずとも、だれしもそのように解釈するだろう。
なるほど、帽子は不思議な衣類だ。
何年も同じホモサピエンスが愛着をもって被っていると、何となくそのヒトの“頭と頭脳にぴったりの形”になっていくのだ。
それなら、“捨てられた帽子”なんて、だれが見ても同情せずにはいられない。
つまりこの句は、「一物仕立てのアニミズム俳句」のお手本にもなるといえよう。
一つの題材だけでも、「二重底の詠み・読み」という空間を生み出しているのだ。
帽子でありながら、心ある人間と同じように見える。
その「二重写し」に帽子のアニマが透けて見える。
アニミズム研究の第一人者・フィリップ・デスコーラは近著Les formes du visible (『見えるモノの諸式』, Paris, éditions du Seuil, 2021)で「アニミズム美術」の2つの手法を分析している。
一つは、アメリカン・インディアン等で見られる「仕掛け仮面」の手法。
つまり、見る角度あるいは仕掛けによって「半トナカイ・半オットセイ」「半カラス・半人間」などに見えて、その両方に共通する「魂の普遍性」を感じさせる。
これは、俳句でいえば「取り合わせ」である。
もうひとつの手法は、イヌイット族などが嗜む「シンプルだが、極端に生き生きしている動物たち」の彫刻など。
今にも攻撃して来そうなホッキョクグマ、意地悪婆ちゃんの横顔そっくりのキツネなどで「生き物の主体性」を強調し、それを謙虚に仰いでいるような造形美。
これが、「一物仕立てのアニミズム俳句」のお手本になる。
なかなか難度の高い手法だが、成功すれば掲出句のように「極小の世界の不可解な美しさ」を垣間見た気持ちにしてくれる。
それで私はそういう句を「量子俳句」とも呼んでいる…。