三都物語─その2【奈良】
👤仲寒蟬

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三都物語─その1【大阪】

奈良市は私の本籍地である。
住んだのは3~4歳くらいの1年余りに過ぎないが父に至るまで仲家の先祖はずっと奈良に暮らしていた。
母は今でもよく幼い私と弟を連れて奈良公園で遊んだと言うがこちらはほとんど覚えていない。
記憶にあるのは第2室戸台風の時に父が2階の雨戸に板を打ち付け停電の夜を蝋燭点して家族4人で過ごしたことくらい。
当時1階には祖父母、2階に父母と我々兄弟が暮らしていたのだ。
あとは幼稚園までの道の途中に池があって蛇を見たこと、お水取りや若草山の山焼、率川神社の螢も見た気がする。

父の会社の関係もあって幼稚園の年長くらいからは大阪に引越した。
奈良の社寺に興味を持つようになったのは小学校の高学年、父の蔵書の中に入江泰吉の写真集『大和路』を見付けてからだ。
あのモノクロの写真集は頁がバラバラになるくらい毎日見た。
さらに6年生くらいからシュヴァイツァーに感化されて「将来は医者になる」と決めたのだが、そのころ父から「お前の先祖は法華寺のご典医やったんや」と聞かされた。それで益々奈良への愛着が増した。

小学校5、6年は母と弟と一緒に、中学校に上がってからは一人で毎月のように奈良の社寺を巡った。
父に教わって和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』などを読んだ。
犬養孝の「万葉の旅」をテレビで見たり司馬遼太郎『街道をゆく』の竹内街道のところを読んだりしたのはもう少し後、中学生になってからだろうか。
その頃には単なる仏像、建築が好きという段階から歴史や文学と結び付けて奈良を旅するようになっていた。
また当時から御朱印を集めてもいた。
切手蒐集をしていたのと同じ感覚である。
古代の天皇や古墳にも興味があったので天皇陵を巡り御陵印を集めたりもした。
そういう訳なので主だった大和の社寺は高校生までにほぼ訪れた。

2025年秋に母を連れて奈良ホテルに泊まった。
私も母も初めてのこと。
ちょうど新装の工事をする直前の古い建物に泊まることができた。
母は奈良にいた頃には憧れていただけで入ったこともなかったと随分喜んでくれた。
次の日の朝早くから奈良国立博物館で正倉院展を見るためここに泊まったのだ。

ホテルに着いて荷物を置いたあと町へ出た。
最近では「ならまち」と呼ばれて観光名所になっているが、私の幼い頃には少なくとも地元ではそんな呼び方をしていなかったと思う。
その辺りに仲家の墓がある。
寺は金躰寺と言い十輪院の向かいあたりである。
久し振りに十輪院の石龕の地蔵さんに会いたかったが残念ながら門が閉まって入れなかった。
金躰寺の墓地に入るとどれも「何々家累代の墓」という具合にまとめてあるのに仲家だけ大小の石が古い(享保)のから新しいのまで所狭しと犇めいている。
こりゃそろそろ墓仕舞いかなとも思う。
ただ学会などで関西に来るたびに墓参りしているので無くなれば淋しい。

今年の5月には大阪で糖尿病の学会があり関西を訪れる機会があったので奈良にも立ち寄った。
奈良国立博物館で開催中の「神仏の山 吉野・大峯展」を見るためだ。
見終ったあと序でと言っては罰が当たるが久し振りに秋篠寺を訪れた。
高校生の時以来かもしれない。
奈良市街の喧騒が嘘のように竹林に囲まれた境内は外国人も観光客もほとんどいなくて実に森閑としていた。
秋篠寺は光仁天皇の勅願によって創建されたという。
鎌倉時代に建てられた本堂は国宝に指定されており優美な屋根の反りを見せる。

ここを訪ねたのはもちろん本堂須弥壇の左端におわす伎芸天に再会するためである。
頭部のみ奈良時代創建当時の乾漆造りのままであるがその他の体部は鎌倉時代に木造で付け加えられたものだ。
しかし余りにも優美なその立ち姿はまるで当初からこうであったかのように調和している。
右腕を挙げ首は少し左下にかしげて物思いにふけっているかのような印象。
その前に佇てば時間を忘れて何時間でもそうしていたい思いに駆られる。

奈良は父祖の地として今も心の拠り所となっている。
日本人の心の拠り所が自分にとってもそうなのだからこれに優る幸せはあるまい。

夏蝶をつまむか伎芸天の指
             寒蟬

仲寒蟬(なかかんせん)
大阪市出身
「牧」「平」代表、「群青」同人
第50回角川俳句賞受賞
第65回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞

句集に『海市郵便』『巨石文明』『全山落葉』