切株はじいんじいんと ひびくなり 富澤赤黄男 評者: 神野紗希

 切株が、じいんじいんと響いている。ただそれだけだ。なのに、なんでこんなに切なくなるのだろう。
 「じいんじいん」というオノマトペは、「じんじん痛む」とか「じいんと感動する」などといった使われ方をするので、伐られた切株の痛みや、その声が心に響いてくる感じを伝えてくれる。また、切株以外が平仮名で書かれていることで、とても純粋で根源的なことが書かれているような気がしてくる。切株の音は、聞こえない音。〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉しかり、赤黄男は聞こえない音に耳を澄ませるのが得意だ。その聞こえない音に共鳴して、私の中に潜む傷もまた、じいんじいんとひびきはじめる。
 赤黄男に師事した高柳重信の多行俳句は、赤黄男の一字空けの技法をさらに推し進めたものだった。私は、赤黄男の切株の句とセットで、いつも重信の船長の句を思い出す。

  船焼き捨てし
  船長は

  泳ぐかな
        高柳重信

 伐られてじいんじいんと痛む切株も、大切な船を焼き捨てた船長も、己の半身を失った哀れな存在だ。一字空けや一行空けの間が、彼らの顛末を知りたいという読者の期待をそそり、そして最後に置かれる「ひびくなり」と「泳ぐかな」。どちらも「なり」「かな」という伝統的な切れ字を用いている。その切れ字の大仰さが、なんだかおどけてみせているようで、真面目さよりも滑稽味のほうへ舵を切る役割を果たしている。結果的に、悲壮感漂う大真面目な句とならず、そのくせずっとずっと哀れで切ない気分が滲み出る句となった。

 根源論も俳人論も、無季俳句論、社会性論議も、僕には無用である。僕はただ、ひとりの人間が、憤りの果てから、虚妄の座から、涙を通し、哀歓を越えて、ついにひろびろとした大気の中で思い切り呼吸することが出来ればと、それのみを悲願するだけだ。(富澤赤黄男「クロノスの舌」)

 「じいんじいんと」のあとに置かれた空白は、あるいは赤黄男の切望した「ひろびろとした大気の中で思い切り呼吸する」ための、小さな小さな風穴なのかもしれない。この空白を抜けて、切株のひびきは、無限に広がってゆく。

出典:『蛇の笛』

評者: 神野紗希
平成27年10月11日