帚木に影といふものありにけり 高浜虚子 評者: 小野裕三

 僕は、俳句史上もっとも「クレイジー」な俳人は虚子だと思っていて、これは長い間の僕の持論でもある。一般的には守旧派の親玉みたいに見られているのだろうが、ところがどっこい、彼はその守旧の果てみたいなところでメビウスの輪みたいにくるっと反転して、ラジカルの極地へと辿り着いてしまったような気がしている。そしてこの句は、そのような彼の逆説的なラジカルさをよく表した句だと思う。
 確かにこの句には季語があり、定型にも収まっている。しかし、まずこの植物自体が妙に人工物めくというか幾何学的というか、何か季節感という以上の不思議な雰囲気を持っている。
 しかしそれ以上に気になるのは、句の形だ。確かに五七五なのだが、「といふもの」も「ありにけり」もある意味で余計だ。特に「にけり」は無駄だ。「箒木に影」だけでも充分に意味は伝わるし、そうでないとしても「箒木に影あり」でもう充分だ。まるで五七五に揃えるために付け足されたような、余計な言葉たち。少なくともこの句は、その内容に比してきわめて冗長だ。
 つまり、この句はきわめて「空っぽ」に近い。そしてこの「空っぽ」さに、虚子の不敵さを感じる。有季定型というルールを厳守した果てにたどり着いた究極の場所は、冗長とも見える空虚な場所だった。いやしかし、世の中でもっとも美しいものは、不純物のない透明さかも知れない。だとすれば、俳句はその姿を限りなく消し去った時、もっとも美しくなる。最高の美に近づくには、世界でもっとも短いとされる詩形ですらも邪魔なのだ。だから、最高の俳句はそれ自体の存在を抹殺した時にこそ、完成する。それはもちろん究極の矛盾であり、であるがゆえに、俳句にとっては見果てぬ夢のゴールなのだ。そんな虚子の不敵な笑みが、この句からは見えてくる。

※『虚子五句集』(岩波書店)

評者: 小野裕三
平成30年2月15日