青春の「十五年戦争」の狐火 金子兜太 評者: 大牧 広

 「十五年戦争」、資源をまるで持っていない日本が資源獲得のため米英に戦争しかけた財閥のため長の自己保身のため、自分の国の弱さ貧しさを顧みず昭和六年の満州事変から昭和二十年の敗戦の日のまでを「十五年戦争」と呼ばれるのであった。
 十五年戦争を「大東亜戦争」を今でも呼ぶ人が居るが、この言葉は、当時の首相東條英機が「大東亜共栄圏」なる妄想に近い構想を打ち出した時の言葉で、今でもその言い方をする年配者に会うと、プロパガンダの恐しさを、つくづくと考える。
 さて、掲分の「狐火」、これが平和論者であった金子兜太が、みごとに、十五年戦争の「恐しさ、むなしさ」の気持がこめられていてまさに「狐火」なのである。
 金子兜太は青春の何年か、この「十五年戦争」にひっぱられた。トラック島に派遣されたのである。
 戦争に必須な「兵器」という意識が全く欠落していた事の上層部、ゆえに、兵隊達は紙のように白くなって可哀想でしたし、と事あるたびに話されていて、金子兜太のやさしい心情がつねに、こめられていた。
 戦争はまさに狐火、それも強いものにおもねり弱い者を虐げる。ちょうど、今の政治そのものと言わざるを得ない「狐火」であった。

※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より

評者: 大牧 広
平成30年9月5日