金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎  評者: 小宅容義

 何十年も前、フランスの映像作家による実験映画なるものを見た。プロットもなければ人間も不在。光と影だけで構成された得体の知れぬ映像だったが、何か物の本質を探求しようとする迫力に満ちていた。俳句だと差詰め純粋俳句とでもいう分野か。芭蕉にみる境涯性には眼もくれず、生活感情も完全にシャットアウト、意味を持たず、思想を言わず、情緒の侵入を防いでひたすら季の真、物の芯へ肉迫する。僕は茅舎のこの句にそんな雰囲気を感じてしまうのだ。写生の極致として虚子は「花鳥諷詠真骨頂漠」を贈っているが、露の句は、その諷詠の域を遥かに超え、物の内質にまで届く凄まじい句だと思う。しかも、主観を潰して何と主情的であることか。物に執して何と精神的であることか。
 
評者: 小宅容義
平成16年9月2日