冬木のどこ曲がりても楼蘭へ行ける 塩野谷仁 評者: 佐怒賀正美

 虚をいかに呼び出し、愉しんで親しく表現するか。この句集『全景』から学んだことは多い。この句の心のひらき方などは、たとえば、
  木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど     阿部完市
などに通じるものを感じる。日常の風景を楽しんでいるうちに、不意に日常を超えた風景に出合ったと感じる瞬間は私にもある。日常の扉を向うの世界へ押しひらく努力をするかしないかで、句の世界の大きさが決まるようにも思う。想像力というのは本来誰にも豊かに備わっているはずではないか。
 阿部氏の句が、木に「のぼる」ことによって距離的に遥かな世界(アフリカなど)をありありと視野に収めてしまったのに対し、塩野谷の句は木を「曲がる」ことによって時間的に遥かな世界を懐かしく引き寄せてしまったのだ。楼蘭の句ならば、この句集にはもう一句、〈ふらここを漕ぎ楼蘭を濃くしたり〉もあって、幻の「さまよえる」湖ロブノールのほとりに栄えた王都楼蘭は、作者のロマンをかき立てる意中の古都でもあろうか。
 冒頭の句には、冷えびえとした「冬木」であっても、どの木にも裏側にはたっぷりとした太古の青い湖が広がっている、という夢想を抱きながら冬木道を歩きたくなるではないか。
 この句集には、他にも、
  たましいや梅の白さの中も梅
  手摑めるもの冬三日月と自我(エゴ)と
  月やがて落花の予感大毛虫
など、虚の世界を大胆に引き寄せた句にしばしば出会い、詩的実感を逃さない技の冴えを堪能させていただいた。

出典:『全景』
評者: 佐怒賀正美
平成22年11月21日