泥かぶるたびに角組み光る蘆 高野ムツオ 評者: 松本詩葉子

 高野ムツオ氏が、23年6月11日の第35回現代俳句講座にて「俳句-瞬間を切り取る詩」と題し、3.11東北大震災に遭遇した時の模様を、東京都中小企業会館にて講演したが、この句は、自宅周辺で作句した一連の句の中の一句である。地震発生時、高野氏はいつも利用する仙石線の電車が動かぬため、13キロ離れた自宅のマンションまで、5時間ほどかかり徒歩で帰られた。津波は、海岸から3キロ以上離れている多賀城駅周辺のマンションのすぐ近くまで押し寄せており、路上には沢山の車両が流され横転し、惨憺たる様相を呈していたとのこと。この句はマンションの5階から見下ろした、多賀城市の中心を流れる砂押川の、河原の蘆をモチーフにして作句したという。当時蘆の姿は見えなかったが、「角組み光る蘆」は心象のイメージで作られたという。泥だらけの河の中から力強く立ち直り、鋭い穂先を光らせている蘆は、まるで希望の光のように見える。
 この蘆の句は、その後24年6月21日に東北大震災の惨禍の教訓を千年後に伝えたいとして、多賀城市役所駐車場奥にある「老人憩いの家」の前に『蘆の碑(いしぶみ)』として建立された。碑文には「死者は188人に及び、全半壊家屋は5400戸を超える未曾有の災禍となった」と多賀城市の被害が記されている。
 ちなみに多賀城市は、私が4歳から28歳まで過した故郷であり、父母の墓は多賀城駅からほど近い向泉院というお寺にある。近くに芭蕉の奥のほそ道で有名な「壺の碑(いしぶみ)」や、奈良時代の政庁であった多賀城址も近く、また歌枕で名高い「末の松山」・「沖の石」もある。「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」の歌にもある通り、丁度いまから千年前にも、津波はこの地に来ていたのである。
 高野氏は「震災句は、まず自分にとって震災とは何なのか、人の死は何なのか、命とは何なのかという思いから、発想しなければならない、自分自身の思いとして形象され自分に向ってくる言葉であることが大切です」と述べられている。心すべき言葉である。
 
出典:現代俳句平成23年11月号
評者: 松本詩葉子
平成24年11月11日