上ゆくと下来る雲や秋の天 野沢凡兆 評者: 松本詩葉子

 野沢凡兆は、加賀藩士の家に生まれ、当初四代藩主前田光高に仕えたが、武士を嫌って京都に出て、医師になったという。芭蕉が『おくのほそ道』で、金沢入りした元禄2年には、すでに京都に居り、芭蕉にはまだ会っていなかった。すなわち翌年の元禄3年に、大阪に帰った芭蕉に初めて会い、蕉門に入ったという。 凡兆の名を一段と有名にしたのが、元禄4年7月、向井去来と共に出した選集『猿蓑』である。この『猿蓑』の中に収められた入選句の数を比較すると、榎本其角・向井去来の句がそれぞれ25句で、芭蕉の句の40句を超える41句が凡兆の句であり、しかも秀吟が最も多かったという。
 掲句も、集中の句の一つである。ふつう秋の天候は、天高く馬肥ゆる爽快な空をいうが、この空は極めて動きの激しい荒れ模様の空である。秋は台風の時期でもあるので、高いところを流れる雲と、下の方から激しく動きの早い雲がまさに飛んで来て交叉するような、迫力ある天候の状態を捉えた句ではないか。『猿蓑』には、ほかに「ながながと川一筋や雪の原」や「下京や雪つむ上の夜の雨」など印象鮮明な句があり、現代俳句に通じる新鮮さがある。しかし凡兆は、『猿蓑』を出した翌年には、芭蕉と離反しまもなく蕉門を去ってしまうのである。芭蕉ともいつか疎遠となってしまい、元禄6年犯罪に関わり入獄という憂き目に遭うのである。晩年は不幸な人生であったが、性格的には剛毅であり、若い時から人の面倒は良く見たらしく、凡兆が亡くなったときには、多くの人が追善句を詠んで、凡兆の死を悼んだという。凡兆の最盛期は短かったが、その非凡な才能は、充分に評価されるものである。凡兆の墓は、金沢市の繁華街片町からやや離れた場所にある養智院というお寺にひっそりとあり、山門の近くには「上ゆくと下来る雲や秋の天」の句碑が立っている。

出典:『猿蓑』(元禄4年7月)
 評者: 松本詩葉子
平成24年12月1日