鉄骨を空へ足すかなしみも汚れ 林田紀音夫 評者: 恩田侑布子

 むかし庶民は、民草とも青人草ともいわれていた。水流のほとりで、草や木とともにみどりの集落をつくった。木は亭々と空にそびえるが、草は風になびき、地べたと親しい。人もまた水を引いて稲と苦楽をともにした。木陰に憩うことはあったが、木よりも高く空を侵すことはなかった。草が枯れるように土に還っていった。
 二十世紀、都市は変貌する。紀音夫のいた大阪も、首都東京も、民はもう青人草であることを忘れ果てた。いや忘れさせられた。
 チャップリンの「モダン・タイムス」は一九三六年作である。それは、機械の歯車に貶められた生を、涙まじりの笑いで告発しつつ、人間性恢復への祈りに満ちていた。同じころ紀音夫は大阪で俳句を始める。だが待っていたのは戦争である。高卒後まもなく華北に出征。敗戦後の職探しで肺を病み、生活にも困窮する。時代を一身に受け、這いつくばって全身で書いた俳句こそ、作者の存在証明である。
 「鉄骨を空へ足」し、青空は切り取られる。作者は病を養い、鉄工会社に職を得る。高度経済成長とともに働く背骨の軋みが伝わってくる。それが俳人紀音夫の詩の勁さである。
 掲句は「鉄骨を空へ足す/かなしみも汚れ」と、体幹部で切断され、下半身は連用形で置き去りになる。現代文明とこころの対置。さりげないが大きな句である。〈隅占めてうどんの箸を割り損ず〉とつぶやく大都会の匿名者の悲哀を書いた作者は、その孤独を超えて、現代文明とは何かを、底辺から問いかける。それは摩天楼の文明である。より強く、より広く、より速く、国境を越えて、利潤追求に熱狂する。
 紀音夫の死の二年後、摩天楼の象徴であるツインタワービルは崩壊し、十三年後、エコノミックアニマル街道を邁進した日本では、三・一一の原発事故を招来した。狭いかけがえのない国土を喪失しながら、まだ欲望を空へ継ぎ足そうとする日本。「かなしみ」は、人間のこころの最後の清らかな井戸ではなかったか。その「かなしみ」さえ、豪華なパンに脅かされ、給料の多寡をなげくかなしみに動物化されてゆく。いわんや慈悲は宣伝文句にすり替わる。「汚れ」たかなしみは浮游し、どこにも着地できない。帰るべき土もない。
 
出典:『幻燈』昭和49年刊
評者: 恩田侑布子
平成25年10月21日