水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼 評者: 國定義明

 2010年10月、国民文化祭(俳句)が岡山県津山市で開催されたとき、案内を受けて三鬼生家を訪れた。西東三鬼生誕の地の石柱の横に「枯蓮のうごく時来てみなうごく」の句碑がでんと置かれてある。場所は吉井川堤の地続きの南新座に今もある。そこから西へ約1キロほどで西寺町、そこの転法輪山成道寺に三鬼の墓がある。分厚い礎石の上に真四角の墓石が置かれ、右に「西東三鬼の墓」と刻まれ、左下に「水枕/がばりと寒い/海がある(三行書き)三鬼」とある。裏面には撰文は平畑静塔で、山口誓子の筆によると誌されてある。この少し後方に斎藤家の墓がある。
 この「水枕」の句は昭和10年の作で、三鬼が急性肺結核で日夜高熱の病床にあって、水枕の現実と死の闇を象徴した寒い海を得たことは三鬼俳句の開眼であった。この手垢にまみれていない感性の鋭さは、三鬼が俳句を集中的に始めて二年目のことである。
 明治33年に生まれ、本名斎藤敬直の三鬼は若くして両親を失い、長兄の庇護を受けた。劣等感、倦怠、虚無に苛まれつつも俳句を得て魔性のごとく創造が始まった。昭和3年歯科医三鬼はシンガポールから祖国へ還るや33歳で雑俳に手を染め、俳句を新興気運に乗せた。そしてコスモポリタンとか、鬼才と呼ばれ、逆にドン・キホーテ、乾杯屋と陰口を言われた。
 無季俳句と戦争の密着は第1句集『旗』に明らかである。<即物的な感覚性>
   機関銃地ニ雷管を食ヒ散ラス
   機銃音蠍の腹をなみうたしめ
 入退院、手術再発6か月経過後、昭和37年4月1日、葉山の仮寓で三鬼は還らぬ人となった。弟子の大高弘達によれば「骨格だけ蒲団の中に沈んでいる」が辞世の句。きく枝夫人には「ああ、もうあかんわ」が現世への挨拶として息を引き取った。新興俳句の旗手三鬼の冥福を祈り俳句行事が続いている。
 
出典:『新訂俳句シリーズ・人と作品 13 西東三鬼』沢木欣一・鈴木六林男著
評者: 國定義明
平成25年11月1日