隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな 加藤楸邨 評者: 江中真弓

 高等学校の国語の教科書で、はじめてこの句に出会った。どこまで理解できたか覚えていないが、青山短大に入学して加藤楸邨の名を見つけて驚き、隠岐の句の作者なのかを教授室に確かめに伺ったことを思い出す。不躾な私達に真摯に向き合って下さった、温かくて大きな先生のお人柄に、幼いながらも深く感動したのであった。俳句が分かるようになって、楸邨先生との出会いがこの句であったことに、今更ながら感銘を覚えるのである。
 芭蕉の研究を進めていた楸邨は、後鳥羽院の『遠島百首』と「実ありて悲しびをそふる」という御ことばに衝き動かされて、隠岐に渡った。昭和十六年三月、日本は大戦に入る直前で、世の動きそのものが、寄せてくる怒濤を思わせたと楸邨は随筆に書いている。
 院が十九年間を過ごされた絶海の孤島隠岐。ここに立って、京都歌壇の情趣的な世界とは違う、院の『遠島百首』の「自然の直接把握」と、荒い「ひとりごころ」の歌境を楸邨は、身を以て実感したのである。それはまた、研究途中の芭蕉の「野晒紀行」の「自然直面」の姿勢とも重なって、自身の俳句観に強くひびいてきたのであった。
 「私の心の中の怒濤が、次第に隠岐の怒濤と一つになりはじめていた。つまり、滲みあうように内と外とが重なり合ってきたわけである。」と楸邨は書いている(随筆『隠岐』)。「主客浸透」の作句理念を楸邨はこのとき自覚し、体現したといえる。隠岐を、自分を取り巻く現実は厳しいが、木々の芽吹きは明るい。院、芭蕉の道を自分も進む、という怒濤と一体化しての昂揚と気迫。主宰誌「寒雷」を創刊したばかりの決意が込められている。
 金子兜太氏は、「〈隠岐の後鳥羽院〉の姿勢を、芭蕉の姿勢に重ねてゆくところに、楸邨の一途さがあったとおもう。」と書いている(「隠岐の楸邨」)。
 楸邨没後十年を修して訪ねた隠岐は穏やかだったが、「楸邨の怒濤」が胸を去らなかった。
 
出典:句集『雪後の天』
評者: 江中真弓
平成26年11月1日